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2021年10月18日(月)
ミュージアムサテライト小金井 企画展示「法政理工系の軌跡」
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<エピソード 千葉県習志野校舎の頃>
<コラム1> 好評を博して続けられた千葉県下中等学校放送討論会
敗戦後、航空工業専門学校はその存在理由を失い、1945年10月、法政大学工業専門学校へ
と改組されました。工業専門学校は1947年3月に千葉県習志野に移転、校舎は陸軍の兵舎を
改造したものでした。習志野では入学志願者集めに苦労し、様々な試みが重ねられましたが、
最も話題を呼んだのが千葉県下中等学校放送討論会でした。朝日新聞社の後援を得て、千葉県
下の各校から参加者を集めた討論会は全国放送されるなど予想以上の好評を呼び、学校が習志野
から富士見(東京都千代田区)へ移転した後も大学として取り組み、1968年まで22回も続けられ
ました。
<コラム2> 最寄り駅までの片道約40分の道すがらのアフターゼミ
法政大学工業専門学校の習志野校舎は最寄りの国電津田沼駅から4キロ以上離れており、
40分以上も歩かなければならない極めて不便なところにありました。そのため、木月校舎
(神奈川県川崎市)で既に学んでいた学生たちの中から移転反対運動が起こり、移転決定後
は多くの学生たちが去っていきました。他方で、校舎から駅までの長い距離は学生と教員の
距離を縮める時間にもなりました。「帰路を学生諸君と共に歩いた。教室での接触よりも、
この方がわれわれにとってより貴重な接触の機会であった」と回顧する当時の教員もいます。