法政大学の3名の創立者、薩埵正邦(さったまさくに)、伊藤修(いとうおさむ)、金丸鉄(かなまるまがね)。彼らは江戸時代の終わりに生を受け、少年期に明治維新という転換点をむかえました。日本中が大きく変化していたこの時代、彼らはアジアとは異なる西洋の社会体制と知に出会い、新時代を切りひらく先駆者となります。
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1.「若者たちによる建学」―こだまする民権・法学知の普及―
法政大学を創立した若者たち
ボアソナードとその教え子たち
「日本近代法の父」と称されるボアソナードは法典の編纂者、法学教師、外交顧問として近代日本に多大な功績をのこしました。ボアソナードは刑法・治罪法(現在の刑事訴訟法)などの法典の編纂に従事する一方で、草創期の法政大学で教頭として教育にたずさわり、法曹界を中心にさまざまな分野で活躍する人物を育てました。
梅謙次郎と清国留学生
梅謙次郎(うめけんじろう)は民法および商法の編纂者であり、「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」と称されました。薩埵正邦(さったまさくに)やボアソナードの後を継いだ梅は法政大学初代総理として学校の発展に尽力し、清国留学生法政速成科を設置するなど法政大学の国際的な試みの先駆者となりました。
2.「進取の気象」―総合大学としての発展、そして戦時下へ―
野上豊一郎と漱石門下の作家たち
1920(大正9)年、法政大学は大学令による認可をうけ、名実ともに正式な大学に昇格しました。大学昇格後の法政大学では能楽研究者・英文学者として知られる野上豊一郎(のがみとよいちろう)のもと、夏目漱石(なつめそうせき)門下の新進作家や学者たちが教員となり、アカデミズムの枠にとらわれない新興大学のイメージを学内外に印象づけます。
内田百閒と開花する学生文化
随筆家内田百閒(うちだひゃっけん)は、1920(大正9)年、野上豊一郎(のがみとよいちろう)の推薦で予科ドイツ語教授に就任しました。母校のさらなる発展を目指す「法政スピル(法政精神)」運動が展開された1920年代から30年代初頭にかけて、百閒とその教え子たちは法政大学を舞台に学生文化を彩る数多くのエピソードをのこします。
三木清・戸坂潤が生きた時代
戦争の時代に生きた哲学者の三木清(みききよし)と戸坂潤(とさかじゅん)。両者は満州事変以降、徐々に戦時色を強めていく日本の社会と戦争の時代に鋭く対峙しました。彼らが法政大学にかかわった期間は短いものでしたが、その思想的営みと悲劇的な死は後の法政大学の歩みを方向付けることになります。
3.「自由と進歩」を追い求めて―戦後法政大学の歩み―
大内兵衛と「われらの願い」
大内兵衛(おおうちひょうえ)は1950年に法政大学総長に就任、約9年間にわたり、教学の整備やキャンパスの再建など多大な戦災を受けた法政大学の復興に尽力しました。戦前にいくども思想弾圧を経験した大内は、大学における学問の自由を追求し続け、大内が記した「われらの願い」は法政大学の目指すべき理念として受け継がれています。
中村哲 対話する総長の肖像
1968年から1983年まで、約15年という長期間にわたって、法政大学総長をつとめた中村哲(なかむらあきら)。大学紛争時に総長をつとめた中村は学生との対話によって紛争を自主的に解決する道を探ります。中村総長時代には現在も続く3キャンパス時代の幕開けがなされるとともに、大学の国際化も進展しました。
コラム
法政大学の歴史を語るうえで欠かすことのできない事柄やエピソードを紹介します。
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